アウトプットというのは、発信である。
プレゼンテーションであり、表現である。
みんな、自分に何ができるか、日々、さがして発信しようとする。
自分はなにものなのか。
自分は、どう考えるのか。
自分だけの「何か」があると信じて、自分の中から掘り起こそうとする。
だいたいの場合、答えはそこにある。
生まれたときから、私たちは完全体だから。
自分のことをちゃんと受け入れ、おおらかに生きるならば。
答えはもう、そこにある。
イエス、オア、ノー。
それは感覚で、口をついて出るほど、かんたんな答えかもしれない。
だけど、ときどき、なぜかそれが、出てこないことがある。
自分がいったいどうしたいのか、何を考えているのか。
考えても考えても、なかなか出てこないことがある。
誰のものでもない、自分だけのアウトプットを探しているのに。
どうしちゃったのだろうと、悪あがきする。
どんどん掘って掘って、それで疲れ果てる。
それでも何もなくて、あーーどうしたらいいのと途方にくれる。
そして、はたと気づく。
私、インプット足りてる?
人に何か発信できるほど、ちゃんと学んでいるだろうか。
一回、ひととき、やっていた、ということではなく。
ちゃんと「やり続けている」だろうか。
他者のいない自分なんて、この世には存在しない。
だって最初はみんな、お母さんのお腹にいたんだし。
最初から一人きりだった人は、この世に一人もいない。
だから自分というものは、2つあって。
持って生まれたあなた自身と、他者の中ではぐくまれるあなた。
自分の中に、何もないと思ったら、自分が欲しいものが自分の中に見当たらないと思ったら。
他者に学んでみる。
それがインプット。
あのスティヴィー・ワンダーも、大好きなデューク・エリントンに憧れて歌を唄った。
あのレイ・チャールズも、ナット・キング・コールになりたくて、ピアノを弾きつづけた。
小手先でマネしたようなものは、単なるパクリの域を出ない。
だけどたくさん学び、愛をもってインプットし続けたなら。
それはあなたの血となり肉となり、あなたのアウトプットとなって世界に羽ばたく。
そんなカンタンなことを、すっかり忘れていた。
いつから、こんなに奢ってしまったんだろうと、少し自分がイヤになる。
もちろん奢っていたつもりなんて、まったくなかったのだけれど。
ただ自分のまわりには、そうやって学び続けているお手本がなかった。
だから知らなかった。
学び変化しつづけようとする自分を否定さえもした。
過去の学びや栄光だけを武器に、同じことを繰り返して生きる。
それも悪いことじゃない。
築いてきたものを、守るというのも立派な人生だ。
だが逆に、もし「何か違う」と感じたなら、そこから離れたっていい。
時間はかかっても、ちゃんとここにたどり着ける。
あなたの行きたい場所は、かがやいて待っている。
そんな気づきの日々である。
もうとっくにガソリンがなくなっているのに、どうにかアウトプットしようと形やテイサイばかり考えていた。
ちょっと落ち込む。
が、冷静に振り返れば、本当にゼロだったわけはなく。
ただ、そのカラクリに気づかず、アウトプットできない自分を責めていたというだけだ。
こんなことばかり言っていても仕方ない。
少しずつ、進んできている。
だから、やるっきゃない。
ちゃんと気づけて良かったのだ。
ものすごく、少しずつだけど。
前に進んでるのだ。
だから、めげずに、諦めずに、進み続ければいい。
カメのようにノロい自分でも。
あぁ〜加速しないかなぁ。とか思いながらも、亀でもいいし。
いつどこで加速するか、ワクワクして待っていればいい。
間もなく。