常識との間に、一本の線を引く。

常識との間に、一本の線を引く。

常識というのは、おおむね多数派の意見といえる。

多くの人が心地よく生きるための決まりごとであり、答えをひとつに絞るための定義でもある。

そういった常識に従うことはまったく悪いことではない。

私は、常識って好きだ。

わかりやすいし、親しみやすいし、共感しやすい。

 

だが常識というのは、あくまで過去の現象が蓄積した結果なのである。

英語の文法書がそうであるように、音楽の理論書がそうであるように、人々が起こした行動や現象の統計結果で、もっとも多く起きていること。

それが常識なのだ。

 

だから常識は時代によって変わっていく。

シーソーが左から右にカタンと動くように、蓄積したデータ量の偏りが一方から他方へと移動すれば、常識もたちまち方向を変える。

 

バブルの時代には、お金は使うものだった。

人はみなお金を使い、モノを多く所有することがステータスだった。

だが不景気になり、お金は貯めるものになった。

人はみなお金を貯め、モノを減らし世間は「持たない暮らし」を提唱しはじめた。

 

かつてのアイドルは、人気者でいるために恋愛を隠し、イメージづくりのためにあらゆるウソをついた。

だが最近は、ありのままをさらけ出せる正直で誠実なアイドルやタレントが人気者になる。

 

常識とは確固たる正解で絶対に従うべきものだと思われがちだが、こうやって見るだけでも違うことがわかる。

 

さらにもうひとつ。

常識と自分の考えは、必ずしも一致しない

 

冒頭に書いたように、常識はおおむね多数派の意見なのだ。

過去に大衆がとった行動や考え方の統計結果ということであり、「こうあるべき」ものではなく「こういう人・現象が多い」という情報にすぎない。

つまり生きるうえでのガイドであり参考情報なのである。

 

何が言いたいかというと、人生の選択権は、つねに自分にある。

その基準も判断も、常識によって決まるものではなく、つねに自分の内面と対峙して決めるべきものなのだ。

 

ここでもまた、よくよく世間を見回してみれば、その事がよくわかる。

むしろ社会を変えるのは、つねにそういった常識にとらわれることなく、自らの基準で決断を下した人たちなのである。

 

安室奈美恵さんが、なぜこんなに大きな社会現象であり続けたのか。

アイドルが笑う・かわいいモノであるべきという業界の常識にとらわれなかった。

そしてカッコよくありたいという自分の意思を貫いた。

人気絶頂の中、自らのプライベートの充実を優先し活動休止。

復帰後に、人気プロデューサーのもとを離れ、攻めのセルフプロデュース移行。

低迷期を乗り越え、MCなしのライブなど独自の路線で確かな地位を築いた30代。

そしてその安定を捨て、人気絶頂のまま引退。

 

ドキュメンタリーで見る彼女の振る舞いは、いつも驚くほど常識的で謙虚で人間らしい。

だが彼女の決断はいつも常識外れである。

彼女はいつも彼女の美学を通す。

だから魅力的だし、だから応援したくなる。

 

常識に従うことは、それが自らの選択である場合、まったく悪いことではない。

安心感もえられるし、社会とのつながりや一体感も得られる。

だが常識にとらわれてしまうことは本末転倒だ。

常識に従わないこともまた「悪」ではないのだ。

 

常識は、まず知っているということが何より大切だと私は思う。

 

今を生きる人間として、何がスタンダードであり、どうすると多くの人に受け入れられるのか。

客観的にしっかり把握し、自分がそこに従うかどうかの選択権を持っておくこと。

そういったことがビジネスの成功にもつながるし、人間関係を良好にする潤滑油にもなると思う。

 

そしてこれを聞いてもし今あなたが「常識にはとらわれたくない」と思ったなら注意ほしいことがある。

 

あなたは本当に常識にとらわれていないのだろうか?

「常識にとらわれたくない」と考えることで、逆に常識に縛られていないか?

そもそも常識というものを知ったうえで言っているのか?

知らないのだとしたら、なぜとらわれて「いない」と分かるのか?

 

あなたは、常識と自分との位置関係を把握できているか?

 

自分の専門分野について専門外の人たちに説明できるか?

自分が苦手な人たちが何を考えているか、理解しようとしているか?

自分がどういう人たちにどう思われる存在か、正確に把握できているか?

それでも今の自分がしている選択は、自らの選択といえるか?

 

私が見てきたかぎり「常識にとらわれず生きている」と宣言している人の多くは無知だった。

常識を知らないし、人の心理や社会の構造をわかっていない。

だからこそ敢えて「とらわれない」と宣言し、自分の無知さを先回りして正当化しているのだ。

社会に対して劣等感から去勢を張っているだけだから、実際は自分に自信がなく、いざというときに思い切った決断ができない。

そうやって結局いつも常識にとらわれまくって生きている。

※過去の自分がそうだったからこそわかることであり、今もなお常に自問つづけることである。

 

常識や世間をよく知らないことは無知にすぎない。

そして無知なままの行動は、少なくとも社会的責任を果たすべき大人としては、非常識になりうる。

 

常識を覆すにも、まずはスタンダードを知ることが大切だ。

それが世間で言うところの「まずは真似してみる」にあたる。

常識を知ってはじめて「敢えて従わない」という選択が自らの意思でできるようになる。

※計算ではなく、自分の情熱の方向が常識から外れていることを許すということ。

 

なにぶん、いざ知ってみると案外従うのも心地よかったりする。

そして従わないことも一つの社会における一つの選択に過ぎないのだとわかる。

 

だからこそ常識を知ることはとても大切なのだ。

常識とは、どういった情報によってどのようにして変化していくものなのか。

さらにこの先どうなっていくことが予測できるのか。

ここまでくると、その選択肢は無限であり、希望に満ちあふれていることが分かる。

そういった無限の可能性を感じながら、未来の自分を作っていく。

 

常識と自分との間にスーッと一本の線を引きながらも、こうして心地よく「共存」する。

そんなふうにできたら理想なのではないかと私は思う。