最近ちょっとトピックが重なり、戦争についてどう考えるか?みたいなことが頭にあります。
私は音楽が大好きな、ただのフツウの人です。
だから、こういったことを言葉にするのではなく、ただ平和や生きることの歓びに目を向けていたいと望んでいます。
だけどここのところ色んな流れがあって、どうしても言っておきたいなぁと思うようになったことがあります。
それは、、、
日本は戦争を絶対にしちゃいけないってこと。
あくまで個人の意見にすぎませんが、大きく以下の3つの理由からそう思っています。
争いごとが起きるメカニズム
まず、争いごとというものについて、考えてみてほしいのです。
誰かが、なにかを気に入らないと文句をつけて、ほかの誰かを攻撃することが発端になります。
この時点ではまだ「争い」は起きてきません。一方的な「攻撃」が発生しているのみです。
ここで「攻撃」されたほうの気持ちを考えます。
攻撃されたら、心的であれ肉体的であれ、傷つきます。
その傷を受け、苦しみを抱えるようになると、その苦しみを癒やしたいという想いをいだきます。
苦しみを癒やす方法は2つ「反撃=やり返す」か「許容=相手を許す」です。
そして「反撃」を選んだ瞬間、その二者間あるいはそれ以上の複数間に起きているものは正式に「争い」となるのです。
これを国と国、あるいは組織と組織(内戦などにおいては)が起こすと戦争というものが起きます。
こういう観点から考えたとき、日本には軍隊がありませんから、もしどこかの国から攻撃されたら傷つくばかりです。
なにせ「攻撃力ゼロ」ですから。
このことは悪いことのように思うかもしれませんが、それは違うと思います。
万に一つ、日本が攻撃されるようなことがあれば、犠牲は出るかもしれません。
それはあるまじきことですが、仮にもし攻撃を受けてしまったとするならば、軍隊が存在してもしなくても、初期の犠牲は避けることはできないというのが冷静な意見です。
またそもそも、そういったことが起きたときに第一に考えるべきことは、反撃の方法ではなく、攻撃された理由を解決することと考えられます。
そういった前提がありながら、それでも軍隊があれば、やはり被害を最小限に食い止めることはできるでしょうか?
それは違うと思います。
軍隊がそれに反撃した瞬間、正式に「戦争」が成立してしまいます。
もし、軍隊が反撃したことで、相手が攻撃力を弱め、日本の被害が最小限にとどまったとしても、相手側には被害をもたらすことになります。
そこまでやりあってしまってから「話し合いましょう」なんていう展開はまず考えにくいです。
おそらく「次の反撃(攻撃)」がもたらされると想像できます。
ですから軍隊が応戦することで最初の攻撃に対しての被害を最小限に抑えることはできても、長い目でみると日本の被害が最小限にとどまることはないのです。
そのように考えると、日本の「攻撃力ゼロ」つまり「反撃する力を持たない」ということは、「たとえ誰から攻撃されても、それを戦争として成立させない力を持っている」ことだということがわかります。
日本はそういった平和の力をもっともっと世界に誇るべきだと思います。
備えれば呼び込む
「攻撃力ゼロ」でいることの効能について「応戦できないことは良いことだ」という上の理由より前のステップとして、もうひとつ言えることがあります。
軍隊を持つということは「いつか戦争が起こる」ことを想定したアクションになりうるということです。
これにはこんな反論があるかもしれません。
世界ではすでに戦争が行われていて、実際に戦争が起きたときに応戦できなかった日本は世界中から大非難を受けた。
だから何だというのでしょうか。
次に起きたときのために軍隊を持つのですか?
次に起きるのですか?起きたときに備えるのですか?
それで、次に戦争が起きたときに対応できることと、戦争がなくなることはどちらが大切なんですか?
そもそも戦争が起きたとき、戦争に参加した国々が日本を責めた理由はなんでしょう。
非協力的だということでしょうか。
確かに表面的にはそう見えますし、そのようにして非難してきたと思います。
ですが、それはただその国の人たちが損したり悪いことをしたと思いたくないから、巻き込みたいだけではないでしょうか?
誰だって戦争なんてしたくないはずです。
それを「正義」と正当化して盛り上げようとしているのに「真に正しいことをする」国があると、うまく国民や世界を巻き込めないわけです。
だから、そういった流れに日本も迎合しろといっている、それだけのことではないでしょうか。
※なお憲法が矛盾しているから変えるという発想については、私にはあまりにも表面的でバカバカしいと思えるので、ここでは割愛します
「戦争をしない」という選択は、現代において最高にカッコいいことだと私は思います。
できた経緯など関係ありません。そんなことはどうだっていいことです。
日本はそういう国なんだってことを、もっと堂々と言っていけばいいのではないでしょうか。
これはジブリの高畑勲さんがインタビューでおっしゃっていたことですが、もし日本がどこかから攻撃を受けたとしたら、きっと他国が止めることになります。
人間が隠れて悪だくみができる時代も、もう終わりなんです。
政治家や企業の汚職やパワハラ、セクハラなどが次々と明るみになっていることを見れば明らかです。
現代において、軍隊を持たない国を一方的に攻撃するような国があれば、世界がほうっておかない。
冷静にきっちり考えればわかることです。
私は国際情勢や国同士の利害関係についてすべてを正確に理解できているわけではありません。
ですが、それらの多くが自らの国や個人のメリットのための主張であることを知っていますし、これはもっともっとシンプルに考えるべき問題だということを理解しています。
真の平和を知っているのは誰か
私はアメリカの音楽やエンターテイメントや成長志向のものの考え方が大好きで、そういったものに憧れ、学び続けてきました。
ところが、アメリカに住みたいと思ったり、アメリカ人に生まれたかった思ったことはありません。
※社会が変わっていっているため、今後も絶対に思わないかどうかはわかりません
それはアメリカが合法で銃を持てる国であり、戦争をする国であり、報復や反撃に「正義」を掲げるということをどうしても理解することができないからです。
そういう考え方が「おかしい」と言っているわけではありません。
そういう考え方もあるのかもしれないけれど、体験したことがないから実感として分からない。
共感もできないし、そういった考えのある国に暮らすことは、どうしても怖い気がする。
なぜなら私は、戦争をしない国に生まれ、育ったから。
世界で起こる悲しい事件にふれるたび、日本に生まれたことを心から幸せだと感じ、生きてきたから。
こういったことを考えるとき、自分はとことん日本人なのだということを思い知ります。
でも他の国の人と違って良いと思っています。
違うからこそ良いとさえ思います。
グローバルに生きていくということは、多数派に歩調を合わせることでなく、多様性を認め合い共存していくことだと私は思うからです。
誤解されないように付け加えておくと、これはただ「戦争を体験していないから分からない」という単純な発想ではありません。
戦争を体験していなくても、現代には情報が溢れていますから、戦争体験を知る機会はいくらでもあると私は思います。
むしろ私はそういったことを、実体験がない中では「いつ起こってもおかしくないこと」として真摯に受け止めてきたほうだと思います。
だからこそ「現代において、戦争をしないと宣言していることが日本を戦争から守っている」ことを実感し、いつも平和に感謝し幸せに生きてきたということです。
争いを避けられて心から幸せだからこそ、争いを受けて立ったり報復したりすることに共感できないということです。
ですがそんなアメリカさえ、変わり始めているのが今の世界の動きです。
インターネットの発達により個人の思想が多様化し、国や政治の力で統制できていた銃や軍隊、戦争に対する世論をこれまでのように保てなくなっているのです。
世界を震撼させた同時多発テロ。
その首謀者を「正義」の名のもと抹消したとき、アメリカは歓喜にわきました。
でもきっと気づいたはずです。
それによって犠牲者が戻ってくることはなく、その傷が癒えるわけではないことを。
最近では、銃が合法であることにより、学校での銃乱射事件が次々と起きました。
そしてそれらの流れを食い止めたいと願う国民によりMarch For Our Lives(命のための行進)というデモが起き、大きなムーヴメントになりました。
このように、銃社会や軍隊が平和をつくるわけではないことに気づいている人たちが増えて続けています。
それを訴え、声を上げる人たちも。
つまり、、、
世界は「真の平和」へと流れているのです。
これはもう、誰にも止められない世界の動きなのです。
情報が氾濫するにつれて、人々はどんどん「リアル」を求めるようになっています。
表面的な情報操作では、もう人々の心は動かなくなっているのです。
そういった中、先進国でありながら「戦争をしない国」である日本。
そんな日本ができることって何なのでしょう。
憲法の文言を調整して、理論上、辻褄を合わせることでしょうか。
軍隊を持って国をより強固に守れるようになることでしょうか。
変わりつつあるアメリカの考え方に押され、信念を曲げることでしょうか。
私は、憲法を改正するかどうかの議論などさっさとやめ、世界の平和を先導することであると思います。
ここからはもう、妄想としか言えないような話になってしまいますが、バカの戯言と思って読んでください。
アメリカやヨーロッパの国々が、いつの日か、平和宣言をしなければならない日はきます。
人間がもっとも愚かに争いをし続けた20世紀がおわり、21世紀も中盤にさしかかります。
個人が意見を発信し、世論を動かし、国や世界を動かす時代がはじまっています。
そして私のように、国や世界がやってきた「個人を煽るような行い」について、多くの個人が気づきはじめています。
そういった平和宣言がどの国から始まるか、3年後なのか100年後なのかはわかりません。
軍力や兵器の縮小という目標だったり、条約などの言葉だったり、どういった形になるかもわかりません。
ですがそういう日は、必ず来ると私は思っています。
ただ信じているとか、そうなるといいなぁと望んでいる気持ちもありますが、世界の流れとして止められなくなる、あるいは、そうせざるを得なくなる日がくるのではないかとも思います。
そしてその流れの中で、日本が世界で大きな力を持てるようになる日がきます。
なぜなら日本には第二次大戦以降、「戦争をしていない」という平和の実績があるからです。
一時は責められることもあった日本ではあるが、憲法でそれを宣言し軍を持たない国づくりをしてきたことにより、結果として「平和を維持してきた」という実績があるのです。
そんな日本のことを、まず欧米諸国の影響力のある個人が「素晴らしい」という声が広がります。
セレブや経営者など、たくさんの人達に影響力を持っている人たちが、国や政治に影響されることなく発言する機会がこれからどんどん増えていくからです。
そういった流れから、日本の「戦争放棄」の姿勢を推奨するムーヴメントは少なからず起きると思います。
そうやって、日本は世界の「平和の象徴」になりうるのです。
では日本が「平和の象徴」でいることがなぜ欧米諸国にとって大事なのでしょうか。
他国が、軍を縮小したり平和を宣言することには、恐れを伴います。
それによってどこかの国との利害関係が崩れたり、攻撃されたときに反撃できなくなるということを意味するからです。
世論に押される形で平和に傾いていかなければいけない中、そういった恐れが決断をさまたげます。
ですが日本は戦争放棄を宣言したことで、誰からも攻撃を受けず、誰も攻撃をしないという「平和」をやり遂げている数少ない先進国です。
つまり、先進国が平和宣言をするにあたり持ちうる恐れが杞憂であるということを体現しているのが日本なのです。
世界が平和にどんどん傾いていく中で、そのバランスを大きく動かすきっかけとして、欧米諸国の背中を押せるのが日本なのです。
世界が平和を「宣言しやすくする」役割を果たせるわけです。
だから日本は戦争をしてこなかったことを、もっともっと誇りに思い、平和のリーダーとして世界を先導していくのだというしっかりとした意思を持って欲しい。
私はそんな風に思っています。
もちろん現実的には、そんなに簡単な問題でないことは、わかります。
だからこそ、戯言と思ってもらっていいと言いました。
経済的なこともあるし、他国との利害関係があって、色々と検討するべきこともあると思います。
こんなの理想論だと言われることでしょう。
ですが、空想だろうと妄想だろうと、理想を掲げることからしか、始まらないこともあります。
政治家の方々が、表面上、どんな風に言っていても、どんな話し合いをしていても構いません。
今のように、議論を上げては沈下させるという繰り返しでも、もしかしたら良いのかもしれません。
(世界が平和に傾いていけば、自ずと日本もその立場に気づくでしょうから)
でもとにかく、戦争だけはしちゃいけない。
私たちは、自分たちが素晴らしい国を作ってきたのだということを、もっと知らなくちゃいけない。
そんな風に思ったことを、ただ、ここに書きたくなったのでした。
以上です。
冒頭にも書きましたが、なぜこんなことをどうしても言いたくなったか、というのは色んな経緯があってのことです。
大きくは、世の中のことをもっと知りたいという自分の願いと、読書などを通した学びや情報収集において戦争についてのトピックがいくつか重なったということでしょうか。
これを書くことで世界が変わるなんて思っていませんし、変えたいなどとおこがましいことは思っていません。
私はただの音楽が大好きなフツウの人間で、これからもそう生きていきたいし、そうするしかないということも、重々承知です。
でも、繰り返しになりますが、今、私がこう思っていることを、ただ記しておきたいと思いました。
そしてこれからまた、家族や友人との時間を大切にし、音楽とともに楽しく生きていきたいと思っています。
平和な時代の日本に生まれた幸せを噛み締めながら、日本を誇りに思いながら。