人生に起こる問題をうまく解決することは、上手に生きていくための一つコツである。
だがその取り組みについては、いくつか注意したい点もある。
問題解決は一見、とても生産性の高い活動のように思えるため、多くの人が積極的に取り組みたがる。
だがそもそもその問題は、本当に問題なのだろうか。
「それが問題だ」という考え自体をまず疑ってみる必要がある。
人生には光と影がある。
問題があれば歓びもある。
だけど問題もある。
だが歓びもある。
堂々巡りのようだが、じつは着地点をどちらに置いておくかで結果に大きな違いがでる。
どんなに解決してもまた問題は起こると思っていれば、人生全体が影となりうる。
一方で、問題が起きても解決すればいいと思っていれば、人生全体が輝いて見えるかもしれない。
問題を解決したいなら、まずは「問題は解決する」という確固たる自信をもって生きることが大切である。
自分がどんなに頑張って生きていても、問題のようなものは不意にやってくる。
だからといって自分に責任があるとは限らないし、真摯に取り組めば必ず解決するものだ。
そういう意識で自分をしっかり信じて問題に取り組んでいくというのが、問題解決の絶対条件である。
この意識を持っただけでも、目の前にある問題の半分ぐらいは実はあまり大きな問題ではない一過性のものだと気づけるハズだ。
だが当然、避けられない問題もある。
自分なり他者なり環境やタイミングによって、起きてしまった問題というものは、ある。
そういった問題を解決するにあたり、どのようにその問題に取り組んでいくのが良いのか。
ここで多くの人は、問題の原因を追求し「どうやったらその問題がなくなるか?」を考えてしまう。
じつはこれが大きなトラップであり、注意したいもう一つのポイントである。
問題をなくすことに注力すると、意識は問題そのものに集中していく。
なぜ起きたのか。
避ける方法はなかったのか。
誰が悪かったのか。
何が悪かったのか。
どうにかできないものか。
意識はさらに問題に吸い込まれ、いっそうネガティブになる。
なぜこんなことになったのだろう。
もっと別の選択ができたのではないか。
そしてそのマイナスエネルギーに耐えられなくなり、問題について考えるのを拒否したりモノや人に当たったりするのだ。
こういった考えの根源には「自分に問題がある」という意識がある。
問題に注目し、原因を究明し「どうにかしよう」とする行為は、自分の過去を責める行為に等しいのだ。
そんな自虐的な行為によって解決への光を見つけることは難しい。
「問題のある自分」を深く認識したところで、自信をなくすばかりで前向きなアイデアなど出てこない。
そして結果として問題解決からは遠のいてしまう。
問題の原因を明らかにすることも、ときに大切だ。
自分が何を考え、どんな言動をとってきたか。
それを認識すること自体は悪いことではない。
だがそれは問題が解決してから次に活かすために考えることであり、問題を解決するために考えることではない。
起きてしまった問題はなくならない。
だから問題の中には、解決策はない。
あれこれ経緯をたどったところで自己防衛や正当化はできても解決への糸口は見つからない。
問題を解決するには問題から意識を離していく必要がある。
問題の原因は過去の自分にあるが、解決してくれるのは未来の自分なのだ。
だから問題とその先の未来をセットで考える。
つまり「問題を解決してどうなりたいか?」という未来への思考を高めていくことである。
たとえば、大切な人と大変な喧嘩してしまったとする。
ここで重要なのは「なぜ喧嘩になったか」「どっちが悪いか」ではない。
「仲直りしたい」のか「もう離れたい」のかということなのだ。
そして、その未来の選択の自由は100%あなたにある。
この未来さえ決まったら、あとは無理せずできる範囲で最善を尽くすことしかない。
この例でいうと、とにかく「仲直りしたい」と伝えることがファーストステップだろう。
あまり先回りして策を練ることはおすすめしない。
「仲直りしたいといっても拒否されるかもしれないから」という理由で、モノや条件を出す。
こうして仲直りせざるをえない状況を作ろうとすることは、あとで自分を苦しめる。
自分の願望達成のために先回りすることはコントロールであり依存だからだ。
仮にその場がうまく収まったとしても、根本的にその問題が解決したことにはならない。
とくに人間関係において自分が周囲に対してうまく立ち回れていると思っている人ほど注意したほうがいいと思う。
相手をコントロールできる自分に酔ってはいないか?
つねに優劣や勝ち負けが気になっていないか?
相手が思いどおりに動かないと腹が立たないか?
もし相手が自分の思うように人が動かないことに腹が立つなら、それは甘えであり依存である。
人は自分の思いどおりに動かないのが当たり前なのだ。
この場合、本当に仲直りしたいなら相手も自分と仲直りしたいと思ってくれることが重要だ。
そして相手の選択を100%相手に委ねる必要がある。
それが信頼というものだ。
自分が手をくだすことでコントロールしたくなっても、相手の選択肢をあなたが奪ってはいけない。
文字どおり、相手にも選ぶ権利があるのだ。
だから「仲直りしたい」ということを伝えたら、あとは四の五の言わずに相手が答えを出してくれるのを待つのが望ましい。
それが相手への愛情表現にもなる。
どんな表現であれ相手も同じ想いでいてくれるなら、それは自ずと分かるハズだ。
そして無事に仲直りしたら、次に同じ問題が起きないよう冷静に話し合えばいい。
これはあくまで一つの例にすぎないが、とにかく問題をなくすには、問題にフォーカスしないことしかないのだ。
そのために意識の中に作るべきは、「問題が解決したあとの未来」ということになる。
未来を作ってから問題の再発をふせぐ方法を検討すれば、じゅうぶんに間に合う。
最後に断っておくと、このように前向きに問題解決に取り組むことは、問題から目を背けるということとは大きく異なる。
自分の内側にある問題を他者や環境のせいにして見ないフリをするのは、ただの現実逃避にすぎない。
そういうことを「なるようになるさ」というのは簡単だが、この違いは大きいし、勘違いしている人が多いことも伝えておきたい。
※我ながら耳がイタイ
それでもお金や仕事に満たされた表面上の幸せがあればいいというなら止めることはできない。
だがお金やモノや環境のような外的要因(親や子供といった存在もふくむ)があなたの心を完全に満たしてくれることはない。
このままで良いのかという漠然とした不安と向き合う覚悟をしなければ、根本的解決ができる日は絶対にこないのだ。
だからもし今、自分の心にモヤモヤしたものを抱えているなら、本当はきっちり向き合うべきである。
最初は怖いかもしれないが、そのうち慣れる。
そういう自分が愛おしく思える日は必ずくる。
それに解決すべき問題があるということは、しっかり認識しておいたほうがあとあとラクになれる。
せっかくの人生なのだから、私は向き合うことをおすすめする。
解決したいという意思さえあれば、解決できる日は必ずくるのだから。