スペシャリストVSジェネラリスト。「多動力」堀江貴文著から。

スペシャリストVSジェネラリスト。「多動力」堀江貴文著から。

堀江貴文さんのベストセラー本に「多動力」というのがある。

そこには、こんなことが書かれている。

「多動力」堀江貴文著 より

あらゆる産業のタテの壁が溶けていく、かつてない時代に求められるのは、各業界を軽やかに越えていく「越境者」だ。

そして、「越境者」に最も必要な能力が、次から次に自分が好きなことをハシゴしまくる「多動力」なのだ。

 

こまかい定義はさておき、ざっくりいえば、

これからの時代にもとめられるのはスーパージェネラリストだ。

と読むことができる。

 

日本の一流ビジネスマンとよばれる人たちは、こういった時代の流れを言葉のうえではつとめて飲みこもうとしている。

各社のオウンドメディアを読んでまわれば、こういったことを謳っている会社がどれだけ多いかわかる。

時代が求めていることを知識として知った経営陣たちが、そこに向かうことを決意し、それを実行していることを対外的にアピールしている。

ように見えている。少なくとも私には。

こんなひねくれた書きかたをすることには理由がある。

現場はどうなのか。

それを垣間みる機会がいくらかあったのだ。

こういった時代の流れが大きくなってきてから少なくとももう10年ちかくは経つ。

だがおそらく、企業にはさほど「多動力」のある人材が増えていないのではないだろうか。

やはり一つのことをコツコツとやってきた人間が評価され、そうでない人間が敬遠されているのではなかろうか。

 

「わかりやすい」のはスペシャリスト

時代が移れど、世間がいうことが変わりつつあれど、現場はまだついてきていない。

特にスペシャリストが必要とされてきたフィールドにおいては、それが顕著だ。

 

スペシャリストはまず「何ができるか」が明確である。

だから使いやすい。

もちろん経験や実績は大切だ。

そのわかりやすさに安心感もある。

だが最終的にその人の可能性をきめるのは本来「何をやってきたか」ではないはずだ。

「何を考え、どう取り組んできたか」である。

取り組みかたがわかれば、新しいことにどれだけ対応するかがわかる。

人間関係でもビジネスでも、100%のマッチなどというものは存在しない。

そのなかでよりよくフィットする人をみつけたいなら、新しいことに対応していく能力がどれだけあるか?を見きわめる必要がある。

だが実際そういったことをきっちり検討する人たちが現場にいないのではないか。

むしろ「すでに実績としてあるものが、いかにマッチするか」ということが重要視される。

こんなに移り変わりの速い時代において、そんなものが一体どれだけ役にたつのか?と思ってしまう。

基本的な仕事のノウハウなんていうものは、本来いくらでも得ていくことができる。

(もちろんひたむきな姿勢で学ぶことが大切なのは大前提)

 

あるいは、こんなことも言える。

長年にわたり経験をとおしてひとつの専門分野をきずき上げてきたひとたちは、その経験に絶対的な自信をもっている。

それはたいへん素晴らしいことだし、尊敬もする。

だがそれが専門分野「以外」のことにたいする苦手意識につながっていることもあるのではないか。

 

スペシャリストVSジェネラリスト、どっちがスゴい?エラい?

たとえば、ある専門分野のこともそれ以外のこと「も」できる多動力をもった人間がいたとする。

だが採用側は生え抜きのスペシャリストだったとする。

こういうとき、スペシャリストが多動力のあるスーパージェネラリストを「いい人材」と認めるのはきわめてむずかしい。

なぜなら、そういった人材を「よい」と認めることが自分への否定のように感じられるからだ。

一つのことを極めることこそ素晴らしい。

そうおもって生きてきたからこそ、その人の今がある。

そんな人の前にスーパージェネラリストが現れたとして、それが客観的に「おもしろい」と思ったとしても、きっと一緒にはたらきたいとは思わない。

スペシャリストは絶対に、自分の理解の範疇にあるスペシャリストを求める。

想像がつかないものへのチャレンジはこわい。

理解できないものというのは脅威でしかないのだ。

 

さらに興味深いことに、スペシャリストはジェネラリストより仕事ができないと思っている。

ジェネラリストが1つのことを極められないどっちつかずな人間に感じるのだ。

この事実にたいして、日本がまだまだ考えが浅いのではないかと私は感じる。

スーパージェネラリストは多くのことに精通するため、とりたてて専門分野を特定できないだけだ。

そしてじつはスペシャリストに近いレベルであるていど深く習得している。

スーパージェネラリストは、ものごとを習得するプロセスがスペシャリストと大きく異なる。

用語や手順をひとつひとつ覚えたりすることはない。

すべてのプロセスにおいて、なぜ必要か?なぜこうなるか?という「意図」を知ろうとする。

それを突きつめて「つまり前にやったアレと同じだ」という抽象度の高い本質的なレベルまでもっていく。

そうやってまったくちがうことを習得した過去の経験からえた法則性を応用する。

だから短い学習期間でいろんなことが習得できる。

 

そして一度説明してもらえば、その人がその言葉にこめた「真に」言いたいことをくみとる。

この人はなぜそういっているか?を考えるからだ。

1きけば10までの景色を、自分でおぎなえる。

※考察する時間は必要だし、感情が邪魔をすることはある。

一つの考えかたで一つのことをきわめてきたスペシャリストには認めづらいことかもしれないが、それが事実なのだ。

 

ただし、だからといって逆にジェネラリストのほうが優秀ということはない。

スペシャリストでなければ到達しない一定の領域というものは、絶対にある。

そういったものはしっかり尊重されるべきだ。

私自身、自分の特性を理解して「スーパー」ジェネラリストを目指しつつも、いつもどこかでスーパースペシャリストにあこがれつづけている。

ようするに、ただ違う生き物であるということなのだ。

言いたいのは、どちらも同じぐらい重要な存在であるということ。

時代はかわり、スペシャリスト一辺倒では企業は生き延びられなくなっている。

そういった人間たちが共存していくことこそが、これからの時代に必要なことなのだ。

 

スペシャリスト&ジェネラリスト:共存

すべての境界線が、なくなろうとしている。

一つのことだけできるのがいいという時代は終わりつつある。

一つの考えかたに基づいてできる作業はすべてAIがになうようになる。

鈴木敏夫さんの著書(対談集)「ジブリと禅」という本のなかでAIについて横田南嶺氏(臨済宗円覚寺派管長)はこんなことをおっしゃっている。

「禅とジブリ」鈴木敏夫×横田南嶺より

人工知能の番組を見ていたら、十七世期の画家レンブラントの全作品をコンピューターに学習させて、レンブラントが今生きていたら描いただろうという絵を、およそ一年半かけて作ったそうです。でも人間はね、レンブラントであっても気分が変わってレンブラント風でない絵を描くものだと思うわけ。まったく違う絵を描き得るわけですよ。(中略)その点で、人工知能と人間はまったく違うんじゃないか、と思うんです。

 

AIが発達していくなかで、人間にできることは何なのか。

人間に求められるのは、どんな場面でもひとえにクリエイティビティになっていくのではないか。

それを養うにはとにかく、いろんなことを垣根なくまなび吸収していくことしかないように思う。

だがそういった時代にたいする嗅覚が日本人はおどろくほどきいてないと感じる。

テクノロジーの進化には追随していっているし、優秀なエンジニアがこれだけ育っているというのに。

現場にいる人々の多くが今も、型にはまったやりかたを捨てられずにいるのではないか。

ひいては日本のビジネスを牽引しているハズの起業家精神をもった人たちさえも。

そういったことを頭で理解していても、大きな枠からは抜けだせていないのではないか。

 

もうひとつ、名著からの引用。

グッドデザインカンパニー代表でクリエイティブディレクターである水野学さんの名著「センスは知識からはじまる」。

そこに、これからの時代の企業のありかたについて、こんなことが書いてある。

「センスは知識からはじまる」水野学著より

企業の価値を最大化する方法の一つに、センスというものが挙げられる。それどころか、その会社が存続するか否かも決める。

水野さんは、センスについて、

数値化できない事象を最適化すること

と定義している。この最適化に必要なのがクリエイティビティである。

またこんなことも書いている。

「自分にはセンスなど関係ない」と思う人もいるでしょう。

(中略)しかし、これも誤った考えだと僕は思います。

センスが必要とされない仕事など一つもないと考えています。

つまりどんな仕事をしている人も、きっちりクリエイティビティを発揮し、センスをみがいていくことが必要な時代だということになる。

 

ちなみにその「センス」は本来誰にでもあるものであり、知識を得ることで磨いていくことができる、というのがこの水野さんの本の本筋である。

「自分はセンスがない」と思うかたは、ぜひ安心してこの本を読んでみてほしい。

ほとんどの人は「センスは誰にでも磨ける」とか「センスを磨くにはまず知ることだ」ということを知らないだけだ。

 

日本人は長きにわたり、ひたむきに技術力をあげたり、団体行動をおもんじたりしてきた。

そういった文化がいまの日本をつくり、世界にほこる技術力で先進国の仲間いりもはたした。

だが時代はかわり、苦労して手に入れた技術の多くが、カンタンに手に入る時代になった。

これからは「考えること」「創造すること」がもとめられるのだ。

 

政府「未来投資会議」で中途採用拡大の議論

10/22、政府の「未来投資会議」がひらかれ、中途採用拡大への議論がなされた。

政府:未来投資会議を開催 官民で中途採用拡大を議論へ – 毎日新聞

政府は22日、成長戦略を議論する「未来投資会議」(議長・安倍晋三首相)を開き、中途採用の拡大や新卒一括採用の見直しを目指し、官民トップからなる新たな協議会を設置することを決めた。大企業に対し、中途採用比率の情報公開を求めることでも一致。先行事例を広めることで、従来型の雇用制度の見直し機運を高める。

つまり中途採用は時代とともにいっそう活性化し、日本の働くスタイルはいっそう欧米化していく。

そういった中で「採用する側」はどういった人材を求めているのか。

目先の改善に気をとられて短絡的な選択をしていないか。

そして、これからの時代を生き抜くために必要な人材を「適切なプロセスで検討」しているか?

もう一度、問うてみてほしいと思う。

 

スーパージェネラリストは中和剤

スーパージェネラリストには、あらゆる境界線がない。

「自分」という価値観だけで動くからだ。

自分の想像のつかない発想をもっている人間は、怖いと思うかもしれない。

コントロールできるのか不安だし、突拍子もないことを言いだすとこまる可能性もある。

クリエイティビティを大切にする人間はプロセスへの介入をいやがる傾向もある。

だがそういった人間こそが、こりかたまった組織の空気をブレンドする中和剤となるハズだ。

そういうことを、日本の企業で活躍するみなさんも、もっともっと信じてもいいのではないか。

仕事に追われてないで、本をよめ。

などと思わず熱くなって言いたいくなる。

 

ただし、これもまたひとつの考えかたにすぎない。

いろんな生きかたがあって然りだし、自分がいいと思わない生きかたをする人たちにもまた役割があるものだ。

この移行期ともいえる時代をいきのびる方法を、それぞれが考えうけとめていけば、少なくとも日本全体としては「よし」なのかもしれない。

 

後記:クリエイティブ論の序章

クリエイティビティにかんすることは、また別途かきたいと思っている。

が、これだけはここに書いておきたい。

クリエイティブとは、真にロジカルなのだ。

たとえば音楽。

どんな旋律やどんな和声の進行が、人々のどういう感情をひきおこすか?

そういった法則は言葉ではっきり表現できないこともあるが、本質的にはバッハが平均律クラヴィーア曲集をだしたときから変わっていない。

あとはどんな楽器つかってどう表現するか?どういったタイミングで変化させ、どこで差別化するか?

そういったことをロジカルに組みたてていくのだ。

※ただし感情面を無視するという意味ではないが長くなるのでここでは割愛。

こう聞いたら、クリエイティブな制作とビジネスがどれだけ似通っているか、わかるはずだ。

クリエイティビティが高いからビジネス思考やロジカルシンキングができないというのは大きな間違いなのだ。

本来どちらもできて然りなのだ。

世界のビジネスリーダーたちの多くは、じつはアートやデザイン、音楽などの芸術ごとに長けている。

欧米では多くのセレブが事業を成功させている。

 

これからの時代に大切なのは、可視化されたデータにもとづいて実行していくような、ものごとを平面でとらえたやり方ではない。

多角的に多面的に、3次元ひいては4次元で考えていくことだ。

そういったとき役に立つのは多動力をもって動くことのできるスーパージェネラリストがみている景色なのではないだろうか。